日本の年金制度は、勤労者を対象とする被用者年金、俗にいう厚生年金と、それ以外の人を対象とする国民年金に分かれています。厚生年金は1945年以前からありましたが、国籍要件により外国人は排除されていました。戦後の占領改革の中で国籍差別の禁止が指令され、国籍要件が削除、外国人にも開放されるようになりました。
1952年サンフランシスコ平和条約の発効により、日本政府は在日コリアンなど旧植民地出身者の「日本国籍」を無くし外国人とすることを宣言しました。1959年には国民年金法が制定されますが、対象は日本国籍を有する者のみであり、その後、制定される福祉手当、国民健康保険等も同様に外国人を排除したのです。
こうした国籍差別が公然と行われる状況を一変させたのが、1979年国際人権規約、1981年難民条約の日本国批准によるものでした。難民条約の内外人平等原則により、制度内の国籍要件をすべて撤廃し、またそれ以降作られる法制度の国籍要件はなくなりました。しかし、国籍要件による差別は残りました。在日無年金問題はその一つで、年金制度の国籍要件を撤廃した時に、日本政府は経過措置を取らなかったために、20歳以上の障害のある人(現在58歳以上)、60歳以上の高齢者(現在94歳以上)が年金加入を認められず放置されました。
日本の年金法で20歳前に障害のある人は、20歳で認定を受け保険料納付無しに年金を受給できます。しかし、国籍条項撤廃時に20歳以上の在日障害者は、20歳の時に国籍要件で無年金と認定されていたので、遡っての適用はされないとことになりました。
上記のような事態は、年金制度の経過において日本人も同様でした。制度発足時、沖縄の日本返還時、中国残留者の日本帰国時などの場合、日本政府は無年金者が生じないように経過措置をとりました。しかし、国籍要件撤廃時において、外国人加入の時にだけ、日本政府は同様の措置を取らなかったのです。そのため、在日無年金問題が生じることになりました。
1982年国籍条項撤廃前から排除されるかもしれないと知り、在日無年金障害者は支援者とともにほぼ毎年、政府に解決を求める交渉と請願署名活動などの運動を展開してきました。1991年には「年金制度の国籍条項を完全撤廃させる全国連絡会」も結成され、その運動に参加した京都の聴覚障害のある金洙榮さんはじめ7人の在日聴覚障害者が2000年に裁判を起こしました。2004年には、京都で在日一世の高齢者5人が提訴しました。裁判支援活動が展開され、同時に京都府と京都市に在日無年金者の救済を求める交渉も始まりました。それにより2005年に京都府給付金制度が創設され、2007年には京都市給付金の増額が実現しました。
裁判は2008年に最高裁敗訴、高齢者訴訟も2009年に最高裁不受理の判決が確定しましたが、その後、国連へ訴え、自由権規約委員会、そして人種差別撤廃条約から度重なる勧告が出ています。
昨年夏、金洙榮さんが67歳で亡くなられました。京都府立聾学校5年生の時に、担任教員から「朝鮮はすばらしい国だ、あなたも自信を持って生きなさい」と言われ、本名を名乗り始めた金洙榮さん。学校時代は人気者で、民族差別でいじめられている在日生徒を助けに行ったりと腕っぷしも強く、親分肌の人だったそうです。在日同胞聴覚障害者協会を立ち上げ、障害と民族の二重の差別に苦しむ同胞の互助のためにも活動されてきました。
昨年10月、消費税アップに伴い「年金生活者支援給付金」がスタートしましたが、在日無年金者は対象外で、年金受給者とさらなる格差、差別が生じています。今年はオリンピック・パラリンピック年と言われていますが、金洙榮さんの遺志を受継ぎ、厚生労働省交渉を続け、署名活動を展開し、不当な差別により生活苦を強いられている在日無年金者の人間としての尊厳を回復し、日本社会の平等を勝ち取りたいと思います。
(年金制度の国籍条項を完全撤廃させる全国連絡会事務局 鄭明愛)